2011年3月11日のこと

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10年前の3月11日のあの時に、どこにいて何をしていたか。
いま20代以上の人であれば、きっと忘れることはできないのではないでしょうか。

10年経った、でもまだ10年しか経っていない。東日本大震災。

「崋山1914文創園區」という、日本統治時代の酒造工場をリノベーションした芸術イベントスポットがあります。
ここで、今月10日から東日本大震災に関する日台友情をテーマにしたコーナーが出展されていると知り、さっそく行ってみました。
思ったよりもこぢんまりしたスペースに、震災当時と現在の東北の姿や防災知識の紹介、日台の芸術家たちによる「起き上がり小法師」作品、日本の漫画家からのメッセージ色紙などが展示されていました。

台湾も火山国であり、地震の多いところです。
東北の津波に襲われた直後の写真を見ながら、あの日のことを思い出していました。

あの日____

3月11日は金曜日、筆者は東京の自宅にいました。
インフルエンザに罹患して会社を休んでいたのですが、ちょうど熱も下がって、テレビモニターで映画「プロデューサーズ」のDVDを見ていたところでした。
夫は会社、上の子は中学の期末試験が終わって帰ってきたところで、下の子は小学校に行っていました。

地震が発生した時、最初は、いつもの地震と変わらないと思って止むのを待ちましたが、徐々に大きくなり、尋常ではない揺れになりました。
あの重たいピアノが、ガタガタと小刻みに足踏みしながら前進してきたときにはゾッとしました。
慌ててテレビをDVDからNHKに切り替え、それからは夜中までずっとつけっ放しです。

地震発生直後から、放送では津波警報が断続的に発信され、アナウンサーは沿岸地域に向けてずっと避難を呼びかけ続けていました。
被害状況などは判明したところから断片的に入ってくる感じで、個人的には東京は揺れこそ大きかったけれど家屋がどうにかなるほどではなかったし、津波が来るような場所でもないし、また病み上がりでぼーっとしていたためか、当初はそこまでの大災害だとは思いませんでした。
義妹から安否の電話をもらい、ようやく小学生の子供を迎えに行かなくてはいけないことに気づきました。

余震は続いていました。いつまた大きいのが来るかもしれない。
首都圏の交通網は、全面ストップ。夫を含めた多くのサラリーマンは、定時まで会社で働いていざ帰ろうとしたら、交通手段がまったくないという事態に直面しました。今なら、無理に帰ろうとするのではなく会社で待機するなど、危機管理体制に移行するんだと思いますが、あの頃は「自由」でした。

結局、都心から徒歩で帰宅する人の群れが幹線道路沿いにあふれ、皆、見知ったターミナル駅を目指して黙々と行進したそうです。
車道は大渋滞でまったく動いていなかったそう。
携帯電話は繋がらず、数少ない公衆電話には長い行列ができていたとのこと。
夫は、結局4時間かけて帰宅を果たしましたが、中には真夜中までかかった人もいたことを考えれば、まだ幸運だった方です。

夜、テレビでは、電気もなく真っ暗な中で、気仙沼らしき場所が赤々と燃えている画面が映し出されていました。
断片的な情報が形になる前に夜になり、どうやらとてつもない大災害が現在進行形で起こっているらしいことだけがわかった1日でした。
まさか、この間にも福島の原子力発電所で大変なことが起こっていて、翌日その屋根が吹き飛ぶことになろうとは。
そしてその後も、陸路が寸断され東京でも物資不足が続き、鉄道は間引き運転となり、電力不足から停電を実施するなど、綱渡りの日々が続くことになろうとは。

10年前の記憶なので正確かどうかはちょっと怪しいものがありますけど、あの経験が日本人を変えたのは確かです。
大地震は「いつか起きるかもしれない」ものから、「いずれまた起きる」ものに変わりました。そう思います。
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